四谷二中 4 非教育的環境ゆえに理想の教育的緊張


創立間もない頃。後ろは間借りをしていた新宿高校  皆私服である
1961年5月生徒会役員選挙がおわり、早速学級委員会が開かれた。小学校出たばかりの僕には、驚天動地の幕開けだった。決まり切った新生徒会長の挨拶の後、やや沈黙があって、三年生が

 「お前、バカか」と一番後ろから言う。新会長があっけにとられていると、
 「分かんないのか。お前、自由に発言して下さいって言っただろう。お前の隣にいるのは誰だ」
 「係の先生です」
 「何のためにいるんだよ」会長は先生に何かを聞いた。
 「僕たちを指導するためです、相談にのって貰います」
 「それが困るんだよ、何でも自由に言えば、その中には先生に聞かれたら困ることも、言いにくいこともあるんだよ」
  「どんなことですか、何を言っても構わないと思います」隣の先生と必死に打ち合わせをしている。
 「バカ野郎、そんなこと言える訳ないだろう。先ずお前の隣の先生に出ていって貰え」
  会長は、救いを求めるように、更に意見を求めるた。他の三年生が
 「僕も出ていって貰うのに賛成。さっき生徒会は生徒のものだって言ったでしょう、君は。生徒の話し合いの最中に先生は要らない」
 「×○先生の授業つまんないんだけどさ、そんな話もしたいよ。先生がいたら出来ない」
  ・・・
 係の教師は、僕の担任だった。議論を聞いて、何か呟くとニャッと笑いながら出ていった。それからどんな話になったのか、あまり覚えていない。  
 入学式でいきなり現れたヤクザの子どもたちに仰天して、それから一ヶ月も経たないうちに、また仰天してしまったのである。僕はすっかり小学生の尻尾を切り落としてし、一つ高い場所に上がったんだと思った。大人ではない、しかし明らかに子どもではない。それを「中ども」という叔母があったが、言い得て妙である。

 臆することなく教師に文句を言う。こういう校風が二中の授業を引き締めたことは十分に予想できる。雑多な生徒・父母、その中にヤクザの舎弟も弁護士も芸者もいることがどんなに大切か分かる。もし歌舞伎町の連中がいなければ、学級委員会は優等生ばかりになっていた。学級委員も、堂々と教師に楯突くことを、歌舞伎町の生徒の生き方から学ぶことは無かっただろう。状況の胡散臭さを敏感に肌で捉える者と、それを言語化して表現する者が揃わなければ学校も、企業も社会も面白くない。
 越境生が犇めくに相応しい授業環境、それは歓楽街の非教育的環境にも拘わらず維持されたのではない。非教育的環境を排除しないか故に成立したのである。

 だが、それは長続きしなかった。1962年~67年まで二中校長を務めた富田義雄先生は
 「・・・子どもがすなおなことですね。・・・教師のしつけが行きわたりすぎている。効果はあるかどうか分からないが、こまかにしめすぎているという感じがしますね」(『静思』1968.3 創立二十周年記念号座談会)と教師の指導に苦言を呈している。座談会の日付は1968年末である。
 全生研や高生研などの生活指導運動が民・官を問わず盛んになり始め、「期待される人間像」が66年。68年には愛知県立東郷高校が開校して全国的な管理主義の潮流をつくっている。
 この頃、戦前戦中の記憶を持つ教師が、民主教育の後退に強い危機感を持っていたことが富田義雄先生の発言で分かる。他の教師たちはどうしていただろうか。 1968年度の二年生が作文に次のようなことを書いている。
 「・・・(今)名門校といわれるほどの、たくましさ、輝やきがあるのでしょうか。いつかA先生は言いました。「こんなうるさくて、しまりのない学年は開校以来始めてだ」 またB先生は言いました。「今度の標準テストの平均点は、新宿区内の平均点を、上まわったのは○○だけだ。そしてC先生は言いました。「未だかって、このように立食いを多くする学年はないぞ」 この三つの話を、取り上げてもわかるように、生活においても、勉強においても、現在二中の中味つまり内面的なものは、空虚なものとなっているのではないでしょうか」『静思』1968.3

 生徒の自己反省にみえるが、「空虚なもの」になってしまった教師の「指導」を批判だとみるべきだと思う。
  僕はアナーキーな活力に満ちた二中の伸びやかな秩序は、教師たちの高い知性と感性が維持したと考えている。生徒側の態度や能力に問題があるのではない。

  後に都教委は、越境入学を禁じる通達を出す。二中に越境していた層は、地元の中学校に帰っただろうか。勿論そんなことはない。私立に移行したのである。越境は、本人の書類上のすみか(寄留先と呼んでいた)を変えるだけですんでいた。入試はない。だから受験にのめり込むとしても、まだ小学生の生活に受験戦争の影は薄かった。だが私立中学には入試がある。一気に小学生にも受験戦争の風が吹き始める。二中では、越境の優等生も学区内の優等生も消えることになった。大きな変化が現れる。四谷二中は、暴走族の間で知られるようになる。
 
追記 新制中学発足にあたって、教育委員会は校地確保に難渋、結局旧制府立六中(新宿高校)に間借りして開校にこぎ着けた経緯がある。同時に厚生省、大蔵省に陳情すること60回余、隣の新宿御苑に校地を確保、条件付きであった。そのため妙な誤解が生じた。 
 「中には、新宿高校の付属のような感覚をしている父兄もいて、「お宅のお子さんは新宿高校は無理です」なんていうと、かんかんになって怒る父兄もありました」との証言が、『静思』17号にある。おなじようなことは、戸山高校と落合三中にもあったらしい。どうも越境入学名門校化の切っ掛けは、これらしい。
    資料によれば、新制中学の初年度(1947年12月)の東京都では、全中学校239校のうち、独立校舎をもったものはわずかに31校(13%)、小学校などの他校舎を借用していた学校は208校(87%)にのぼり、新築校舎の新制中学は23区内では0校、都下でも6校というありさまだった。
   

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