ゴミをさらってゆく風になりたい

  掃除は生活指導や管理の対象だろうか、自治の一部だろうか。

 だいぶ昔、僕が高校教師になったばかりの年。三年生のある教室が汚れてきた。だいぶ掃除していない。担任は滅多に教室に来ない。ある朝教室の黒板に、「本日昼休み・コンサート有り ○×新聞社」と書いてある。 ○×新聞社とは、四人でやっている私的学級新聞社。昼休みに教室を覗くと、新聞社員の一人がギター、一人がマラカスで演奏を始めるところである。もう一人は学級新聞を配っている。メイン記事の見出しは「緊急キャンペーン 「ゴミをさらってゆく風になりたいな」」とある。 当時流行っていたフォークソング「夏色の思い出」  

 きみをさらってゆく風になりたいな
 きみをさらってゆく風になりたいよ
 君の眼を見ていると 海を思い出すんだ
 淡い青が溶けて 何故か悲しくなるんだ
 夏はいつのまにか 翼をたたんだけれど
 ぼくたちのこの愛 誰にもぬすめはしない .

のパロディであった。彼らは最初の「きみ」を「ゴミ」に変えて、歌った。二番もある。途中から残った一人が箒を持って加わる。教室が笑いに包まれ、拍手喝采。四人は照れながら黙って掃除を始めた。「かぜ」になった彼らは何も言わないのだ。
  「参ったなぁ」
  「私もやる」などといいながら加わるものが出る。
  僕はこの3月まで終わりの見えない大学紛争の中にいた。荒んだ気分で「夏色の思い出」を聞いてはいた。雑踏を流れる音の一つとして。しかし四人の手作りコンサートを聴いているうちに、美しい海辺の光景と優しい人間関係や明るい青春像が迫って来た。ここは同じ都内でありながら、紛争で荒んだ顔も怒声もどこにもない。

 掃除しない者を非難するわけではない、汚す者に説教もしない、規律や罰を要求もしない、学校や担任を批判することもない。ただギターで掃除を訴える、素晴らしいセンス。叫び出したい衝動を覚えた。大学紛争の中で、僕らの言語と発想が如何に貧弱であったか。


 この学級には、新聞社が幾つも生まれた。いずれも小遣いでとカンパで運営され、総合紙が三社、スポーツ専門が一社、音楽専門紙まであった。夕刊もあったような気がする。競争は次第に熾烈になり、色刷り、絵入り、写真付きと面白くなった。正月特集号は郵送で有料予約であった。五・六ページ立てで、写真構成の特集もあり、お年玉抽選の番号までが打たれていた。
 取材合戦も激しかった。渋谷で書店に寄っても、駅前の焼き鳥屋で同僚と一杯やっていても、生徒たちは聞き耳を立て、盗み聞きに励む。その夜のうちに編集会議が開かれ、ガリ版に彫られる。朝一番の生徒印刷室で、一枚ずつ不器用に印刷されて乾ききらないうちに配られた。
 学級新聞には「駅前で○○先生、××先生と秘密会談」などの文字が躍り、麦茶と焼き鳥を一本渡したことは「本紙記者に買収の魔の手」などと書かれもした。職員会議の情報もスッパ抜かれたことがある。
 ある日帰宅途中の高田馬場で山手線を降りて振り返ると、女子生徒三人が尾行していたらしく
 「あっ、ばれちゃった」と笑い出した。
 「学校からずっとつけてきたの、先生不用心よ」
 「どこかで、誰かにあったり、デートしたりしたら写真とるつもりだったのに」
 「今日は失敗、またね、先生さようなら」と賑やかに逃げていった。油断も隙もあったものではない。ある教師などは立ち読みを後ろから覗かれ「エロ教師エロ本を立ち読み」と書かれてしまった。当の教師は「嘘じゃないからなぁ・・・」と頭を掻いていた。さわやかな緊張感。不屈の報道の自由の精神が芽生えている。

 僕は彼らの「政治経済」を受け持っていたが、授業での遣り取りも試験の出来も素晴らしかった。学習内容の中から若干テーマを絞ってレポートを求めたのだが、レポート用紙一冊を使い切ったものも少なくはなかった。それが可能だったのも、高校紛争の過程で、いくつかの妥協が成立していたからである。先ず、定期試験廃止、生徒会は解散、制服廃止・・・。そのうえ二期制であったから、レポートを書く時間に不足はない。いくつもの教科のレポートを年に何通も書く。それを三年間繰り返す。学級新聞の深化発展もその賜物だと思う。
 お陰でここの卒業生はなかなかの大学に散ったのだが、どこの大学でも彼らはすぐに出身高校を言い当てられた。答案やレポートの出来が、皆群を抜いて際だっていたからである。生徒会はなくなっていたが文化祭などは盛んで、近所の人たちも押し寄せていた、立候補制の委員会が、ことある毎に組織され運営にあたった。



追記  1933年4月10日、丸山眞男は出来たばかりの唯物論研究会創立公開講演会に聴衆として参加検挙、本富士署に勾留された。後に丸山自身が「いのちの初夜」とよんだ体験験である。つい今し方迄いた署内では拷問が平然と行われ殺人さえ行われるている。「その壁一つ外では、享楽に賑わう生活があった」と書いている。
 「夏色の思い出」を聞くと、僕はこのときの丸山の気持ちを想う。僕が一足早く教員となったとき、多くの友人たちは様々に大学に残っていた。
 大学はまだ危険な学園闘争の中にあった。しかし学校(旧制七年制高校が新制高校と新制大学に分離したうちの前者)に赴任するや否や僕は高級住宅地の文化を享受する少年少女たちに囲まれる。大学と敷地を共有し、大学生と変わらぬ生活。定期試験さえ廃止されていた。市民的自由と直接民主主義、少年らしい正義感と好奇心。家庭の身分的経済的安定がもたらす豊かで明るい寛容性。
  クラス新聞でゴミだらけの教室を特集して「君をさらってゆく風になりたいな」をもじって「ゴミをさらってゆく風になりたいな」のタイトルを付ける。ギター持参で歌いながらキャンペーンを始めたのだった。少しもカリカリせずにユーモラスに問題提起をする。教師の指導などどこにもない。「君の目を見ていると海を思い出すんだ・・・」。まさしく歌詞の情景はその高校と高校生の日常を表していた。僕にとっての「いのちの初夜」であった。

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