ベトナム民主共和国独立宣言文には 「昨年から今年にかけて、北部ベトナムでは200万人が餓死した」との記述がある

 ベトナムの独立宣言は1945年9月2日。その中にこう記されている。
 私たち民族はフランスと日本という二重の枷をかけられたのです。そのときから、私たち民族は、日増しに困窮し、貧困にあえぎました。その結果、ついに昨年末から今年の初め、クアンチから北部にかけて、200万人の同胞が餓死しました。
200万人の餓死は何故起きたのか、人々は如何に苦しんだのか。1956年サイゴンで出版された記録がある。 「子供を棄てた父」  後藤均平訳『季刊三千里』に掲載


 「水呑百姓だがヴォクさん一家はなんとか暮らしていた。三十歳前後のこの夫婦には、子供がもう六人もいた。ヴォクさんは頑健で、クワを取っても田植えでも刈りとりでも、どんな農作業でもなんでもござれ。だから仕事にあぶれることはまず無かった。 奥さんがまたかしこくて、村の日傭い詰所にゆくと、みんな彼女を傭いたい、という働き者。夫婦とも一日中そとで働くから、家の雑事はみんな一ばん上の娘のスオンが受け持った。 
 スオンは、弟妹のめんどうをみたり、掃除、洗濯、お粥たき、母さんからいいつかったことはなんでもする。キツいはずだがなにひとつ不平を言わぬ。彼女はきっと、他のひとが考えるほど、やってることが苦しいとは知らないのだ。だから無邪気に毎日家の仕事に精を出していた。 
 刈り入れ時は、子供たちには天国だ。大人の刈り入れ唱をききながら、田んぼを走りまわって、ハスの花をつんだりイナゴを追ったり。日暮れになるとさすがにくたびれて刈り草にころがり、あとは小川で水あそび。そして夜は、大人が月の光りのなかでモミを篩う作業をみつめる。村の子供たちはしあわせだった。 
 だがスオンはいっしょに遊べない。彼女は、キセルを持って田の瞳で号令をかけてるオジさんたちに、ごくろうさんと一服すすめる。それから許してもらって田んぼにおりて、落ち穂を拾う。家に帰ってモミガラをむき、コメを乾かす。それを母さんが糸に換える。 
 ヴォク夫妻は子供たちをかわいがった。仕事をおえて夕方家に帰ると、奥さんは三人の娘を池で浴びさせる、ヴォクさんは息子たちを川につれてってカラダを洗う。そして寝る前に子供たちは、冷やメシを一杯と、おかずはゴマと小さなナスビだけれど、これでみんなは満足していた。 夫婦は毎朝四時に起きて、村の詰所に行き、働き場所が決まるのだ。太陽が昇る頃、朝メシを食いながらその日の仕事の打ち合わせ。太陽が頭の上に来たら、傭った方も傭われた方も昼メシにして、一時間休んでまた働いて、日が沈むころ日当をもらってそれでおしまい。特別手当にコメを一合もらう。これが土地なき農民の日々だった。
 1944年の九月の洪水のあとで、もうすぐ飢饉がくる、と夫婦にはわかった。話し合った「仕事が無くなるかも知れん。これからは、おカユを食べて出かけよう。そうすりや晩にもらうコメが貯められる」。 
 十月になった。毎朝早く詰所に行く夫婦が、そのままクワをかついで帰ってくるようになった。 十一月、十二月になると、村人たちがバタバタ死にだした。しかしヴォクさん一家はまだ無痕だった。 明けて1945年のはじめに、一家は末娘を失なった。二歳だった。父と母は心臓を切られたようにうめき泣いた。数日ご、四つの男の子が死んだ。ひ弱なたちで、夫婦がいちばん心配していた子だった。バナナの樹の根っこをヌカといっしょに食う何カ月かのあげく、子供はこれ以上生き延びれなかったのだ。それでも、この子が死んだだけ一家の口にするものがほんの少しでも助かったというのか。いやちがう、このとき貯えてきた食い物は底をついていた。村の水田は死んでしまっていた。バナナの根さえ、掘りつくされた。たまにひと握りのコメが手に入っても、六等分にわけた。で、食べた気がしない。 このままゆけばあと二、三日でまた子供を墓に入れねばならぬ。父の胸は暗い。妻に言った、「こんなぐあいで食いモノをわけたら、みんな死ぬ。いちばん先におれだ。四人の子供をほっぼり出すか。子供は自分で食いつないでゆけないか。たとい死んでも、おれたちはまだ若い。キキンがおわってまだ生きてりや、子供はまたつくれる」。 妻は首をふるわせた。両手で顔をおおって、泣き叫んだ。カラスの巣のような彼女の髪、糸だらけのポロから出てる彼女の肢を見て、夫はいっしょに泣きわめきたい、いっそ死んじまいたいと思った。しかし気をふるって、言った。 「子供をかわいがらない親がどこにいる?生んだのはおれたちだもの。だがな、おれたちは、アラシに遇って海のまん中にいる竹の舟だ。みんな助かろうとすりやみんな死んじまう。子供にすがりつきゃ、子供もろとも、死に神にすがりつくだけだとも」 母親はひと言もいわぬ。その日から、夫婦だけが食べ、子供にわけてやらなくなった。 
 子供たちほひもじくて、親が食べるとテーブルに寄ってきて、食いものに手をかける。父はその手をたたき、外に追っばらった。寝るときだけ帰って来いというのだ。 子供たちは路をうろつき、もっと腹を空かし、這って家にはいる。そのとき家にすこしでも食いものがあれば、父はあわてて子供を柱にしはりつけた。 十日たった夜、スオンがとうとう帰ってこなかった。父は娘をかなしんだ。生まれてから苦しい日ばかりだったなぁ。 朝が来て、戸口を一歩出た母は、一声叫んでたおれた。スオンが前のヤシの根もとで死んでいた。父はだまってクワをかつぎ、娘を裏庭に埋めた。 その四日ご、夜おそく、二人の息子が帰ってきた。そして、たがいに手をしっかりにぎり合ったまま、入口の前で死んだ。 もう一人の娘は、いつ、どこで死んだか、だれも知らない
    
 これは作り話ではない、とチャン・バイ・マイさんは言う。マイさんは地主だった。1943年から三年間、北部ベトナムの自分の村、近在の村々で、その目で見て、書きとめておいたことどもを、1956年にサイゴンで本にした。本の題は『アイ・ガイ・ネソ・トイ?』(誰が罪をつくったか)。
 飢饉のなか、草の根を掘り、樹の皮を剥いで食べて、人も牛馬も家畜もろとも餓死した事実は、どこの国にもある。今でも地球上に在る。しかし古今東西の餓死にも殺戮にも、かならず人為の要因がある。 このとき北部ベトナムの農村地帯の場合は、つぎのようだった。
 日本軍は1940年の秋、中越国境をこえてフランス頒ベトナムの北部に侵入した。一年ごの太平洋戦争の先触れである。日本はベトナムに軍政を布かず、フランスの支配を通してベトナムを制圧した。二重支配である。日仏間でどんな紳士協定があろうと、支配される側は二重の搾取に苦しむ。
1942年の後半になると、太平洋の各地で日本軍の旗色がはっきりと悪くなった。日本はベトナムのフラソス政府に、コメの買上げを強制した。南ベトナムのコメを日本は現地の軍需工場で燃料がわりにも使った。
 42年から45年のはじめまで、三井物産が日本国内に運んだベトナムのコメは、計250万トン以上。そして日本軍は、ベトナム地域を決戦場に予定して、そのためのコメを大量に集めた。
 古来、瑞穂の土地の北部ベトナムは、フランスの半世紀の植民地政策でコメの自給ができなく、南部からのコメにたよる経済機構に組みこまれていた。その、ここにもコメの強制供出である。
 強制買上げでもうかったのは、植民地政策と結託したベトナム地主であり、仲買人のボスであり、政府であり、日本軍部だった。だから日本軍は十分にコメを貯えた。だから北部ベトナムの農民たちは、つくったコメをさらわれた。さらに、
「1944年の五月から九月まで、三つの台風が北部の米どころを襲った。常時でも台風は農民に無惨な被害を与える。だがこの時の災害は、戦時の経済混乱の中にある彼らを襲ったのである。天災かならずしも餓死とならぬ。フランス当局は救済しない、むしろ餓えて死ぬことを期待した」(ゴ・バン・ロン)。
 「ふつうの農繁期は、脱穀・精米・袋積めで忙しい。だが、1944年秋の農繁期は、まったくちがった。農民は田に出た。そして天を仰いですすり泣いた。彼らはすべての希望が消え去ったのを知ったのだ。つぶやいた、来春の刈り入れまで、おれたちは生きて会えるかわからない、と。それは互いの最後の別れのコトバのようであった。 飢饉は十月にはじまった。そして、どの年よりも早くきびしい寒さが来た。北風は飢えた人びと、貧しい人びとのポロ着をつき破って、吼えた。灰色の空に厚い雲がかかり、村々に夜も昼も雨が降った。雨は飢えた人びとの骨の髄までしみとおった。 十二月の太陽は鉛色の雲にとざされた。弱い日が竹ヤプの上を射すだけ。毎日がのろのろと進行した。 雨と風と飢えと寒さが時間をいっそうおそくしているようだった。人びとは寒くて、枯れ草にもぐりこみ、バナナの葉を身に捲きつけた。ひもじくて、沼のコケ、イモの葉、蔓、木の皮を剥いで食った。 村の人びとはお互いにお互いを救うことができない…‥・」(マイさんの手記)。
 以上を据えてもう一度、ヴォクさん一家のうごきを読んでいただきたいと思う。

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