宇高申先生 1   留置場の先生に生徒の声援

  宇高申先生は1966年12 月11日日曜日朝、自宅に押し寄せた新聞記者たちに取り囲まれ、警察官に紙切れを示された。翌12日から15日の四日間先生は、野方署に留置、同時に家宅捜査を受け、教員組合関係書類が押収された。1958年4月21日の都教組一斉休暇闘争を地方公務員法違反として 取り調べを受けたのである。先生は当時、都教組中野支部委員長であった。同時に区立中央中で数学を教えていた。その生徒たちが休み時間の度に廊下の窓越しに、野方署の留置場に向かって一斉に叫んだのである。「宇高先生頑張れ」と一時間ごとに収監中の教師に中学生が激励したのは、前代未聞だろう。野方署と中野区立中央中は隣あっていたので、声は直接先生の耳に達した。声の励ましと共に父母からの差し入れも、ふんだんに届けられた。生徒たちや父母の信頼は抜群であったことがわかる。何故かこの希な光景を報道した新聞も雑誌もない。警察の出頭要請には仰々しく押し寄せるが、収監された教師の人物像を伝える光景には、関心を示さないのである。しかし、東京地検には、この情報は届いていたと思われる。なぜなら宇高先生は、都教組事件の起訴状から除外されたからである。地検の狙いは、地方公務員法第61条4号のあおり行為等に当たるとして、起訴して有罪とすることであった。煽りとは扇動であり、地公法はこれを特に悪質と見做して、公務員をストライキから隔離しようと目論んだ。だが、公務員を含む全ての労働者の労働基本権を保証した憲法に違反、地方公務員法自体が違反している。一斉休暇闘争当時の世論はどうだったか。

 「勤務評定をどう思うか」の全国世論調査(有権者3,000人を無作為抽出)
 ◇小学校や中学校の先生の教え方について、校長先生が点数をつけるのは、よいことだと思いますか。
 よい 44%、よくない 33%、その他の答 7%、答えない(わからない)17%
 ◇小学校や中学校の先生方の考え方や思想に校長先生が点数をつけるのは、よいことだと思いますか。
 よくない 46%、よい 28%、その他の答 4%、答えない(わからない)22%
 ◇日教組では勤務評定はいまの平和で民主的な教育をこわしてしきつと反対しています。先生たちの言分はもっともだと思いますか。
 もっともだ 33%、そう思わない 31%、その他の答 7%、答えない(わからない) 29%
 ◇政府は勤務評定は「まえに法律できまったことだから」といって、この際いそいで実施しょうとしています。あなたは政府が実施を急ぐ方針に賛成ですか。
 賛成 21%、反対 49%、その他の答 3%、答えない(わからない)27%
 ◇勤務評定をやめさせるために、日教組はこの15日の授業をやめたり、半日で打切ったりしたところがありました。あなたはこのやり方に賛成ですか。
 賛成 9%、反対 75%、その他の答 7%、答えない(わからない)14%
       (勤評世論調査 1958年9月17、18日の両日、『朝日新聞』)

 第二項目と四項目目の質問と回答をみれば、政府のやり方に対する国民の懸念がかなりあることが解る。しかし当時の新聞の社説論調は、教員に冷たかった。典型的論調は
 「この一年間の紛争に、国民はアキアキしてしまった。なによりも問題、義務教育を受けている子供たちが迷惑し、その父母たちが混乱していることである」(毎日新聞 1959.2.16)に代表される。確かに、例えば高知県では実態を調査にきた日教組委員長らが集団暴行を受けて、十数人の重軽傷者を出した。
  だが「子供たちが迷惑」という決まり文句は、巷に溢れたが子どもの「迷惑」の実態にも本質にも迫らず、論戦の質を著しく低下させてしまった。子どもにとっての悲劇は、勤評政策とその先取りを画策する管理職や教師の動きであった。勤評に反対する行動やストライキではない。これは僕が直接経験し、高校生になってまだ記憶に生々しい時期に「研究」したことに基づいている。校長は校長としての勤評される。周辺他校に比べて評定を高めるよう進学実績や業者テストに力を入れるだけではなく、それまでは実態のなかった委員会活動が強制されるようになった。教室の席は、成績順に四つのグループに分けられ、それぞれ廊下側、窓側・・に座らせられクラス中が暗く沈んだ雰囲気になったのである。決してストライキのせいではない。地元の四谷二中は、京王・小田急線などを利用する越境入学者で溢れ、当時東大合格者を百人以上出していた新宿高校や戸山高校ら進学する者の多い名門であったが、突然「二中はガラが悪い、不良が多い」という風評がPTAを通じて広がり、私立を受験したり他校区に越境しようとする者が出始めた。お陰で塾に通う者が増え、担任への付け届けがささやかれるようになった。遊び仲間もバラバラになったのである。もしストライキがあり、その理由がわかれば、小学生であっても中野中央中の生徒と同じように「先生、頑張れ」と叫んだに違いない。 現実に二中では勤評反対スト集会に参加して帰ってきた先生が、授業に影響が出たことを詫びて、ストの理由を説明したとき僕らは拍手した。

 もし、宇高先生を裁判にかければ、留置所に響いた「先生、頑張れ」は地裁に響いたに違いない。先生は中央中から3キロ離れた杉並の天沼に住んでいた。杉並は主婦を中心にした原水爆禁止運動の発祥の地である、中野は教育委員の準公選制を続けた土地柄である。主婦や生徒を中心にした、「反勤評」の全国的なうねりが生じた可能性は高い。なにしろ「杉の子会」という杉並区の主婦たちの小さな読書会から始まった原水爆反対署名運動は、1954年から1955年の夏までに世界中から6億7000万の署名を集めているのである。僕はこの読書サークルに眼を向けられなかったノーベル財団をつまらないと思う。                                        つづく

追記 写真は中野中央中で数学を教えていた当時の先生。この当時公立中学校で制服のないところは珍しくなかった。これは陣馬山への遠足。

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