違式註違(いしきかいい)条例

違式も註違も罰金を指している
  薩長による維新政権は、文明開化を焦って文明のかたちに煩かった。1872年東京府知事は「違式註違(いしきかいい)条例」を発令。刺青、男女混浴、春画、裸体、女相撲、街角の肥桶などから、肩脱ぎ、股をあらわにすること、塀から顔を出して笑うこと等76箇条を「文明国」に有るまじと決めつけ、軽犯罪としている。
 「裸や肌脱ぎがいけないというなら、いつも肌脱ぎしているお釈迦様はどうなんだ」と噛み付いた新聞(「新聞雑誌」第50号)もあったが、武力と不平等条約に屈した支配層は青い眼の、日本のあれが文明的でない、これが野蛮であるとの視線に神経質になった。 江戸でも女性が路地で行水を使っていた。それほど治安が良かったのであり、裸は風雅なものでもあった。それはむしろ誇るべきことである。しかし女性の行水に英米婦人が野蛮・淫猥と眉をしかめれば、たちまち裸禁止令を出した。盆踊りや裸足が槍玉に挙がった所さえある。欧米の眼差しや思惑を過剰に忖度して、恥ずべきでないことを恥じる。その卑屈さは、「文明国」にあるべからざる事物への侮蔑的な眼差しを生んだ。
 通りすがりの光景に眼尻を立てる「文明人」の一瞬の嫌悪感は、深い考察を伴うわけではない。肥桶が臭いと言えば、それは安全で良質な肥料であり、数百年わたって百万都市の衛生を担って成功していたことを自認して誇り、他方で衛生思想も学ぶ。裸や混浴が淫猥で不道徳と言うものがあれば、裸と性行為を結びつける者こそ淫乱と論議して、道徳習慣についての相互の寛容性を惹起する。それが教養であり、矜持である。
  現に学校教育においては、教育令で「凡そ学校に於いては、生徒に体罰を加うべからず」と規定。世界で最も早く体罰を法によって禁じたとされるフランスに先んじること8年の1879年であった。教室に鞭を常備し続けた英国の外交官オールコックは幕末の日本に体罰のないことに感銘を受け、欧州の子どもへの体罰を「非人道的にして恥ずべき」と書いている。ここでは日本の独自性と矜持は賢明にも維持されたのである。
 だが、裏声で攘夷を絶叫していた薩長が長英・薩英戦争で敗北、その英国の後押しで政権にありつくや、一転して英国人にとっての「不快」な存在そのものを禁止・排除・抹殺して迎合しご機嫌伺いするのをくい止められはしなかった。敗北してなお保つ小国らしい矜持はここにはない。 註 既に、植民地的従属性に彩られた全体主義的絶滅思想の腐臭がある。
 こうして叩かれた一つが、ハンセン病浮浪患者だった。彼らの実態は貧困にある。急激な膨張で悪化する「帝都」の衛生状態を放置し、チフス・コレラ・赤痢など伝染病死者が万を越える。それでもお上は貧民・患者救済には目もくれず、慣れない洋装で鹿鳴館通いの乱痴気騒ぎに興じて、御殿造営、軍備増強、爵位・勲章の乱発には抜かりなく、それを文明開化と呼ばせた。
 日本贔屓のお雇い外国人医師ベルツも、この騒ぎには眉をしかめている。
  今の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、なにもかもすっかり野蛮なものでした」・・・「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今やっと始まるのです」と断言しました。・・・わたしが本心から(日本のの伝統に)興味を持っていることに気がついて、ようやく態度を改めるものもありました。      
 千年の都の鎮守の森や仏閣も崩れるに任せ、写楽や歌麿を塵芥に仏像は煮炊きに使う始末。それが益々外国の敬意を遠ざけることをベルツは指摘している。
 後藤昌文らの漢方医学には誇るべきものがあったが、政策的に一掃され、 註 大きな禍根を残すことになる。
 片足を「文明」の側に置いたつもりの日本は、「文明化」のためには「旧弊墨守」の隣国侵略さえ厭わなくなる。その日清戦争の結果に虚構の「一等国」意識が沸きたつ中、居留地制度廃止(1899年)。外国人が日本中を自由に往来居住して、浮浪患者も頻繁に「文明人」の目にふれる。更に日露戦争「勝利」に酔い痴れて、一等国に有ってはならない恥ずべき」という言葉がハンセン病に付いて回るようになる。 註
 後に、「救癩」の看護婦三上千代は「文明国民」の心得を説いている。
 美はしき日本の土よ、桜咲く国よ、富士の霊峰に、大和魂に誇の多き我国、殊には、畏れ多くも、万世一系の皇統を頂く、世界に比類なき、神々しき我国に、生を受けた我々は、如何ばかりに恵まれた国民でありませう。然し乍ら、茲に我らに、唯一の恥辱がのこされてあります。それは「癩病の一等国」といふ、有難くない名称でよばれて、列国から侮辱されてをる事であります。・・・・・・・これが未開の野蛮国なら、さまで目障りにならぬでありませうが、如何にせん、文明国といふ正装の手前、実に嘆かわしい面汚しではありませんか。    

 「文明国といふ正装」という普段着を忘れた言い回しが、救癩は隠癩に過ぎないことを自白している。病気は不運なものであっても恥ずべきものではない。
 1905年の帝国議会で、ハンセン病をペスト並みと決めつけ隔離を要求する議員に、内務省衛生局長は、「(伝染病予防法は)急劇ナル伝染病ニ対スル処置デアリマスカラ、或ハ隔離ト云ヒ、交通遮断ノ如キ、其他此多クノ処置ハ、癩病ニ対シテ、直チニ適用ハ出来難イ」と隔離を退けている。
 この年だけで9万6000を超える死者を出した結核の心配をしなければならないことは明白であった。赤痢・チフス死者も万を越し、コレラや痘瘡も定期的に猛威を振るっていた。他方ハンセン病死者(その殆どは併発した病気で死亡)は既に減少傾向にありこの年、2千余。結核死亡者は増加を続け1943年には17万を超してしまうのである。
                       拙著 『患者教師と子どもたちと絶滅隔離』地歴社                                                                                       
追記 日本は第二次大戦に敗北するまで、負けたことがないわけではない。 1863年 薩英戦争と1864年馬関戦争で負けている。その薩長が明治政府を構成したのだから、明治維新は敗戦から出発している。戦争前は蛇蝎の如く嫌っていた相手を、敗北するや、武力と不平等条約に屈し、過剰に忖度する性癖は、昔も今もこの国に満ち満ちて実に鬱陶しい。 その典型が不平等条約や「違式註違(いしきかいい)条例」と鹿鳴館である。今それは、日米安保条約と地位協定である。異なるのは明治政府が、不平等条約の解消に力を注いだのに対して、現政権は「日米安保条約と地位協定」に依存していることである。

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