learn and unlearn / think and unthink

  「ヘレン・ケラーは「“I learned many things, and I had to unlearn many things”と語った。ケラーが学んだラドクリフ女子大学の講義は、耳が聞こえて、本が読めて、しゃべれる人が対象で、概念の組み立てもそうなっている。彼女は、「自分の身の丈に合わせて概念をたちなおさなければならなかった。この「概念をたちなおす」、つまり“learn and unlearn”というのは、一度編んだセーターをほどく、ほどいた同じ糸を使って自分の必要にあわせて別のものを編む、そんな感覚ですね」 
 鶴見俊輔「Unthinkをめぐって-日米比較精神史」、『リベラリズムの苦悶』阿吽社、1994年

 僕が学区最底辺のKH高で感じた生徒たちの驚嘆すべき能力は、learn and unlearn の枠組みの中で漸く捉えることが出来そうだ。またMH高にいた知能偏差値70の生徒の振るわない成績、しかし傑出した知的表現と好奇心の矛盾もUnthink の過程にあったのだと思うとよく理解が出来る。それ故、彼女の学習は「納得」と「共感」の色彩を帯びていたのだ。
  なんと言う僕の愚かさだ、退職した今になって漸く生徒理解の手がかりをつかむとは。我々教員は全く学び足りないのだ。足りないどころではない、ますます「科」学的に専門化してスペシャリスト化して悦に入る教師研究者たち。生徒たちが部分に分割できない「全体」であることを平然と無視している。(例えば、進路を早く決めろ、好きなことは何かはっきりさせろ、早ければ早いほどよいと後ろから追いまくる。学ぶとは分からなくなる過程でもあるのに)
 僕はKH高の生徒たちの学力の断面が、教委に忠実な平均的学校教師が繰り出す授業の断面と食い違っているのではないか(いわば教員のジャックに、生徒の形の違うプラグを挿そうとしていた)と大会で仮説を立て理解されなかった。 learn and unlearn の枠組みは、解りやすいだけではない。学ぶ主体の有り様も示している。ひねくれたいと「倫理」だけを学び始めたS高の生徒。養護施設の中で同調するよい子であることを強いられ続け「うまく適応」した彼女にとって、解き編み直す過程は青年として個性化自立する不可欠の過程であった。
 時間無制限テストにおける熱中(文字通りの熱中、頭から汗をかいていた)、作品としてのノートへの熱中(休み時間に気付きもせず書きつづけ帰宅してもノートを続ける)、解らない難しい授業を楽しむ精神・子どものような好奇心、それらは全て“learn and unlearn”の枠組みを通して説明出来る。
 MさんやAさんが今直面している、そして嘗ての僕が見た問題は、深く普遍性を持つ第一級の課題であると思う。それを我々は数十年にわたって「厄介さ」だけに注目、使命感に溢れた善良な教師が個人的に耐えるべき「艱難辛苦」と捉え美辞麗句で対応してきた。分かりやすい授業や補習、目新しい教材も、的をはずして更なる苦痛。それらを善意で「成績不振」の生徒たちに与え続けてきた。
 厭な教師の授業がつまらなければ、それは単に厭な奴への反感を強化する過ぎない。しかし善良な教師による手慣れた授業や指導の挫折は、教育そのものへの不信絶望となる。親切はかえって仇となる。橋下らの学校教員攻撃が支持される訳である。
   ハンセン病療養所全生分教室は、この桎梏を乗り越え自由であった。ケラーもまた感覚の孤島に絶滅隔離されていたのだ。
 生徒をlearn and unlearnの枠組みに招じる為には、まず我々がunthink しなければならない、つまり不良にならねばならない、反逆者やひねくれ者にならなければならない。
 佐伯胖が「従来の教科内容の研究が、科学として確立した知識の構造化にはたいへん力を入れてきたが、それらを認識していく理解のプロセス、特に、子供がもつ既存のスキーマとのかかわりに関する研究はきわめて遅れているといえよう」と言ったのは 1982年。「真実性感覚」が欠けているのは子どもたちではない、教師の方である。付属学校や研究指定校は一体どれほどあるのだろうか。そこでどれほどのレポートが作られるのか、教育関係学会レポートは一年に何本出て学位へ繋がるのだろうか。教育に関わりある中央・地方官僚は一体何人なのか、学者は何人いて何をしていたのか。
 「辺境」の生徒たちの鬱屈・不満・不信・絶望・無関心が、これらに向かって集団的怒りとして現れる瞬間を待望する。今年の夏も何千もの教育研究集会がもたれ、己の善良性と、着目の先進性を競う。 これらの総体が教育基本法を変えさせ、教委不要論・公務員不要論や反知性主義を「辺境」の人々に広げたのだと思う。始まりは善意と使命感だからこそ、罪は大きい。                                
  「(幕末から)明治初期の人間は、ヨーロッパ渡りの学問を身につける時にも、江戸時代後期の寺子屋の教養を巧みに生かしてunthinkしながら、thinkとunthinkを並行的にくり返し考えます。・・・明治半ばになると、・・・政府が大学を作って、そこでみんな勉強することとなります。政府のお金の後押しで、欧米の学問を身につけるようになるわけです。そうすると、それまでの幕藩体制の政府に逆らって、自分の首をかけての・・・洋学とは、変わってきます。 ・・・渡辺崋山、高野長英といった人たちにとっては、unthinkということがあったんですね。Think and unthink。Thinkがいいんだけれど、thinkだけになっちゃうと困るし、thinkよりももっと機械的なlearnになると大変困るんです。小学校で成績が一番の人は、先生が何を教えようとしているのかパッとわかる人です。そうすると一番になれるんだろう思います。小学校で一番、中学校で一番、高等学校でも一番、大学でもというのは、そうとう困るんですね。learn, learn, learn and learnなんです」鶴見俊介


 鶴見俊輔自身が、始めからunlearnの少年時代を過ごし、日本からアメリカ、アメリカから日本、戦中から戦後と極めてダイナミックなThink and unthinkの体験を三度半経験している。戦後の知識人や政治家は多かれ少なかれ、右であれ左であれThink and unthinkの体験を経ている。最近のそれがモスキート級に写る訳である。

 Unlearn も unthinkも極めて個別的かつ個性的過程であり、類型化は軽率だろう。どのような授業が教師が学校がそれを可能にするのか。中野重治の『五勺の酒』に描かれた旧制中学生たちの教師を超えて「ぐんぐん賢くなる」姿はunleranの過程である。青い山脈の「古い上衣よ さようなら」が示すようにそこかしこに溢れていた。だが校長は少年たちの伸びが鈍く停滞し始めると嘆いた。leranとthink を促すものがかけていたのだ。それが今になって急激な反動を形成している。ハンセン病者の山下さんや谺さんの学びの過程は、始めからunlearnの生活として始まっている。

追記 僕はここで「底辺」校の生徒達を、「辺境」の生徒と呼んでみた。彼らは、本人の学力だけではなく、家族や親戚を含めて仕事・人間関係・身体・住居・・・一切合切が不利な片隅におかれている。そういう意味で、「辺境」と言ってみた。だが体制や価値観によって、辺境は忽ちにして交流の中心、変革の先端となるのである。
 『五勺の酒』で、旧制中学の校長が「共産党が合法になり、天皇制議論がはじまると、中学生がいきなり賢くなった。頭のわるくない質朴な生徒、それが戦争中頭がわるかった。それがよくなってきた。ちく、ちく、針がもう一度うごき出してきた。中くらいの子供が、成績があがるのとちがって賢くなった」と書いている場面もこう考えることが出来る。皇国史観の硬直した世界では、「辺境」に追いやられていた少年が世界観の大変革を受けて、先端に踊り出て「いきなり賢くなった」のだと。

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